人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2013
2013_e0176000_22465620.jpg

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
旧年中はお世話になりましてありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

反省と抱負
# by chebi-chi | 2013-01-01 00:00 | ノート
3.11
3.11_e0176000_2341472.jpg
未曾有の地震が一年前のこの日、東日本を襲った。私はその時、家のダイニングで修士論文でお世話になった先生に手紙を書いていた。14:46。揺れた瞬間、危険を感じた。すぐさま周囲を見渡した。正面に食器棚、左にキッチン、右には窓ガラス、後ろにはドア枠に掛けられた洗濯物。いずれに対してもある程度距離があった。いつも食事をする自分の席。ここが一番安全だと直感した。揺れている間、正面の食器棚を見つめていた。いつもの地震ならば食器棚から食器が落ちてくることはまずない。食器棚の戸が開いた。一枚、二枚と食器が落ちる。この地震の異常さを感じたのはこの時だった。不安が頭を過る。揺れが落ち着き、テレビをつけた。震源地がどこかわからなかったからそれを知りたかった。自分の真下が震源地でもおかしくないとった。それくらい異常だった。しかし予想とは裏腹に、遥か北東の三陸沖とあった。自分がまだ行ったこともない地の危険を東京からひしひしと感じた。次に窓を大きく開けた。少し冷たい風が部屋の中に入ってきた。風が額にあたり、自分が冷や汗をかいていたことに気付いた。直ぐに母親から電話が掛かってきた。とりあえず無事だったことにほっとした。しかしその後、通信手段はなくなった。唯一生きていたのはTwitterだけだった。自分の部屋に戻るとこれもまた不思議な光景だった。何も変わっていなかったのだ。写真立てが2つ倒れていた程度。何が落ちる訳でもなく、本当に何も変わらない風景だった。異常な揺れを感じたが、東京は壊滅的な被害を受けた訳ではなかったとここで悟った。その後、家族の帰りを待つ為に家を出る訳にはいかなかった。テレビを見ていた。地震直後のテレビに映る映像はまさに見るに堪え難い映像だった。ノストラダムスはニアミスをしただけで、ついに来たのかと思ったのは2度目の大きな揺れがきた時だった。また2、3このグラスが床に落ちた。窓の外はお台場からの黒煙が見え、消防車が駆け巡るサイレンの音、そしてまたテレビに映る東北の映像。混乱していた。自分だけではなく日本全体が。揺れが落ち着き、家族が戻ってきた。次なる地震への不安を抱いていたが、結局割れたグラスや皿も10枚にも満たなかったし、先程も述べたが自分の部屋に至っては何も傷ついてなかった。Twitterではまだまだ混乱が止んでいなかったけれど、疲れもあって、眠りについた。

いつものように朝がきて、テレビを見て昨日の出来事は夢じゃなかったんだなと悟った。もうテレビは見たくなかった。昨日からずっと家にいてテレビを見ていた。外に出たいと思った。昨夜は帰宅難民が沢山出ていて東京中を人が歩いていたらしい。今は岐路に着き、身体を休めたり、家を修復したりしてるんだろうと思った。私は自転車を引っ張り出してきて東京を見ようと外に出た。今、この時の東京は今しか見れない。24歳で体験したこの出来事を黙って過ごすのは嫌だった。まずは入社が決まっていた会社に向かった。ここまでの道程で人に殆ど出くわさなかった。車もいない。コンビニやスーパーに目をやると、食料品やらが棚から大量に落ちていたが。しかしビルに目をやるとひび割れや、タイルが剥がれていたりといった被害は目についたが、倒壊や大きな被害がなかったことに建築の頼もしさを感じた。自分の会社があるビルも例外ではなく、これといった損傷は見られなかった。東京は脆いなんて言うけど、意外なほどに普通だった。表参道まで行ったが、いつも土日は人でごった返すブティック街に人の気配はなかった。その人気のなさが東京の一番の異様さだったかもしれない。

私の同級生の中には、海外に卒業旅行をしていてあの地震を体験しなかった人もいる。西日本にいた人は東日本の混乱ぶりをテレビの中でしか知らないだろう。私は確かに体験した。震源地から遠い場所だけど、体験したのだと思っている。体験したとかしていないとかは本当に何も関係ないけど、私の中ではこの地震は本当にリアルだった。地震から数日間、じわじわと何か被災地に対して何かできることはないかと心の奥で常に思っていた。

ここからはジレンマの連続だった。卒業式もなくなり、そのままずるずると社会人になった。慣れない業務に悪戦苦闘し、お昼の話題は放射能ばかり。インテリアという付加価値系の仕事はこんな時期には無用なのか?とさえ思った。自分自身の無力さに苛立っていた。しかし、転機が訪れた。本社の一年生が社内限定でクールビズポロシャツを制作しようというのだ。仲が良かったこともあったし、デザイナーという職業柄も買われこの企画に誘われた。節電ムードが高まる中、ビズポロというのがいいと思ったし、何より売り上げの一部が義援金になるそのシステムが気に入っていた。つまり売れれば売れるほど義援金が増えるのだ。デザインができることは何だ?ということを考え続けていた私に一点の光が見えた。ここからは皆が買いたい、つまり皆が着たいと思えるようなポロシャツをつくろうと努めた。業務終わりに終電までサイゼリアで話し合いをしたりもした。朝早く起きて打ち合わせをしたり。結果は1000枚以上売れた。義援金の金額もなかなかのものだった。しかし、予想以上にハードワークだったことも事実だった。間接的ではあったが、半分、満足してしまっていたのかもしれない。何となく、地震のことから離れた。目の前の仕事だけをしていた。

2012年に入り、再び同期から誘われた。本社には震災以降ボランティア部が発足し、3チームに分かれて被災地に対して様々なやり方でボランティア活動をしていた。その中の1チームに子どもたちがワークショップを行う場所をつくってほしいという依頼があり、インテリアをやっている自分に声が掛かったというわけだ。少し迷った。ビズポロの時はもの凄いハードだった。しかもビズポロの時とは異なり、今回は直接的に被災地の方々と付き合うこととなる。中途半端なことはできないと思っていたし、だからこそ迷った。しかし、チームのリーダーである先輩に言われた一言が私の曇りを晴らしてくれた。「これはチームだから、君ができることをしてくれればいい。アイデンティティを発揮してくれればそれで十分だから。」と。彼女は地震直後から活動している。それを今まで続けてきている。チームのリーダーであるから全ての活動に顔も出すし、チームの全体的なバランスも把握していて本当に頭が上がらない。もうついていくしかないと思った。2012年になってやっと、ボアンティア部に入った。そして、被災地に2度訪れた。私が訪れたのは釜石や山田町だ。非常にデリケートなことであるから表現が難しいが、被災地の風景を見て自然の猛威を感じた。それはもう、とてつもない猛威を。しかし、それと同時に復興に向ける人々の力強さを感じたことも事実だった。本当に頼もしかったし、強いと感じた。私の活動がどれだけ被災地に対して貢献しているかはわからない。もしかしたらプラスマイナスゼロかもしれないし、おせっかいなのかもしれない。でも何かしたかった。あの揺れを体験して数日間、感じて、見て、聞いて芽生えた被災地に対する想い。その活動がひとつ、4/1に節目を迎える。実の形を伴って。これで終わりだとは思っていない。でも、何もできない社会人一年目のヒヨッコがやったひとつの成果が節目を迎えるのだ。何も感じない訳がない。今日、このブログを書いたのはあの時の気持ち、原点を振り返るためだ。そしてあの出来事を整理しておこうと思った。震災直後はとても書ける内容ではない。しかし一年経った今、振り返る。そして今の活動に誇りを持って、また明日から活動していこう。
# by chebi-chi | 2012-03-11 23:40 | ノート
2012
2012_e0176000_235293.jpg
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
旧年中はお世話になりましてありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

反省と抱負
# by chebi-chi | 2012-01-01 23:15 | ノート
サッカー合宿
サッカー合宿_e0176000_23164142.jpg
入社半年。運動不足が深刻化し、今までずっと変わらなかった体重が変わった。
そんな危機感とボールを蹴りたい衝動にかられてサッカー合宿に行ってまいりました。
グループ会社で構成されたサッカー部は役職も部署もさまざまな人の集まり。
だけど、フィールドの上ではそんな肩書きは関係なし。皆汗を流し、ボールを追いかける。
久しぶりのサッカーを思いっきり楽しんだ2日間。
来月はフットサル大会と設計事務所対抗リーグに参戦する。
# by chebi-chi | 2011-10-31 22:50 | ジャーニー
長野
長野_e0176000_192753.jpg
季節は夏。
台風が来て、蝉も鳴き始めたではないか。
この夏はどこかに行けるだろうか。

ゴールデンウィークに同期と長野に行った。
そういえばこの想い出をブログに綴っていないことを思い出した。
我が家はお風呂の順番待ちだ。書こう。

山々に囲まれた建築を巡る旅
# by chebi-chi | 2011-07-25 00:00 | ジャーニー